社会の全てが作法(パターン)で構成される

社会の変化(進化)は細かな作法の更新である。新技術、社会環境の変化(災害、疫病、戦争など)及び政治・経済の状況から、作法の更新は余儀なくされる
AI(人工知能)は新技術であり沢山の作法へ影響を与えて、多くの作法は更新されると
思う。

コンピュータが誕生し、ハードウェアとソフトウェアに分けて扱う技術が現れた。
以前は、技術というとハードウェアが中心であり、その範疇で多くの
暮らしの作法を更新した。冷蔵庫やテレビを始めとした家電がその一つである。
戦争で旧来の作法が更新された日本では、暮らしの作法を更新する家電が創られ易い環境であったため、世界向けて提供し、受け入れられた。
しかしながら、この成功が色々な作法となって日本社会へ浸透した。
ソフトウェア技術に基づく、暮らしの作法を更新するものを作り出せなかった。
ソフトウェア技術の知識が日本へ入ってこない訳でなく、新たな作法を生むアイデアが
なかったわけでもない。作法の更新を生む製品やサービスを認めない決定者のせいである。各企業の決定者達は、共通したハードウェア中心の作法に従っていた。

日本でのAI取り組みは他国に比べると今のところ盛んではない。決定者の問題である。
この問題は、社会文化の中心的な所で非常に厄介である。
年功序列社会であり、年功者は新技術を知らないし、技術の意味することへの見識もない。更に、日本の年功者は学習もしない判断する基準を持っていない

AIの可能性・利便性やAI社会懸念を語る前に過去30年以上の停滞が生じた事と
向き合い、脱却の対策が必要となる。
AIは多くの社会作法を更新することは間違いない。一方的に他国に追従する状態となる心配がある。
次の記述でどんな活用ができるのか、事例で考えてみる。
加えて、その事例は受け入れられる作法の範疇かを考察する。

注)作法やパターンに気づいたのは、英国の建築家クリストファー・アレキサンサーが
1977 パターンランゲージを発表したことにある。都市計画中心であったが、
ソフトウェアや社会問題へ応用され、発展している。

今日の写真、旧いアルバム?

旧いアルバムからではありません。午前の散歩で見かけた光景です。
タイムスリップしたような感じです。歩きながらふと思った事です。
科学が進歩したというが、5%も解っていない、解らないことばかり。
AI(人工知能)が実用になっても、この解らない状況は変わらない。

セニアの散歩、5〜6人のセニアとすれ違いました。

冬の小川、白菜、川辺の風景

昨日の雨、湿った夕方

昨日の雨で湿ったところが残っている。足首の捻挫は少し痛みが残っているが
ゆっくり歩いた方が早く回復すると信じて、夕方から散歩をしました。
<ゆすらう梅公園、公園から続く散策歩道>

 

 

 

 

 

 

 

松風公園へ向かう、午後の3時過ぎ、どの公園にも人影がありません。冬のこの時間帯は散歩する人も少ない。  <冬枯れの松風公園>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3キロ弱の行程で団地の中央、丘陵活動うセンターへ戻ってきました。

AI(人工知能)を思う

今日は散歩をお休みです。
昨日の散策中、浮石に乗って軽い足首捻挫です。

生成AIがブームで多くのサービスが話題となっており、無料のものが沢山あります。
アップルのSIRIが日本語で使えるようになり、MICROSOFTのcopilot、Googleのgiminiなど、検索と同じく手軽に使える。その他、沢山のAIサービスを利用出来ます。

人工知能は人の知識活動と比べられない、使い物にならないする人も多くいます。
しかしながら、次のことを考察するとAIも有効であることがわかります。

人の知識活動を考えて見るに、経験や学習、人から聞いた事などが脳へ蓄積され、
ある課題が認識された時、蓄積されたこと使って考えて答えを導き出します。AIは要求(課題)が与えられると、蓄積された知識要素(LLM=ラージ・ランゲージ・モデル)をベースにして答えを生成します。LLMの要素数は3000億以上で1兆に到達する勢いです。LLMはインターネット上の情報や論文からの学習が休む事なく続いています。
従って、個人の蓄積した知識要素よりLLMが優れていることは理解できる。

では、AI至上で良いのか、向き合い方が大事と強く思います。
長くなるので次の機会へ回しますが、鍵は”感覚ー6感”的な事が欠ける所と考えます。もう一つは”人の脳は都合よく忘れる”ことにあるかも知れません。AIにも”忘れる”機能は付加出来るので、究極は感覚の問題となるかも。

 

埼玉平和資料館

本日の散歩は、東京電機大学の鳩山キャンパスを経由し北へ向かい、大東文化大学の東松山キャンパスを経る7キロ程のコースである。


 

 

 

 

 

 

途中の高台には、埼玉ピースミュージュアム(平和資料館)があり無料で見学できる。幾度となく通過する所だが、初めて入館し展示を見てきた。
そこで感じたこと、”平和”が指すものは戦争から飢餓や社会不安など幅が広い訳だが
展示内容は戦争、それも第二次世界大戦(太平洋戦争)時代の市井に残されて品々が
中心でした。平和ーー>戦争と絞ることは理解できるが、戦争の本質(個々の倫理と利益のため相手を暴力で殲滅する)を伝えること、第二次世界大戦以降でも、朝鮮半島、ベトナム、中東戦争などの展示が欲しい。

今尚、イスラエル、ガザ、シリアそしてウクライナでの紛争(戦争)に加えてアフリカでの紛争などが続いている実状がある。戦争の本質を伝える拠点となるよう望む。

抑止力として戦闘力を増強する取り組みは、戦争の本質を肯定している証と
思っている。
戦争をしない為の取り組みが必要で、抑止力(戦闘力)を強化することではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ツツジの名所である物見山公園へ続く散策路へ、静かな冬の景色を楽しめた。

 

変動の前触れ?

雲の無い青空、肌に冷気を感じる天気である。
昼前の陽射しの元で散歩する。
今日の散策は、家並みと畑が点在する所である。

静かで穏やかな空気が漂う、野菜の無人販売棚、散歩する人への心使いのベンチ、
安らぎ満ちた環境である。

 

 

 

 

 

 

 

 

時間がゆっくりと過ぎる。世界を見れば紛争、飢餓が広がる現状を思うとこの雰囲気は得難いこと、余りの穏やかさから、嵐の前(動乱の前)の静けさかと
不安がよぎる。
日向と日陰は必ずある。

重苦しい曇り日

どんよりして気が滅入る天気でした。風もなく寒くも暑くもなく、ポジテブな気持ちになると散歩に好都合な日でもある。”曇り日で気が滅入る”と刷り込みがされているのか、そんな事を思いながらの1時間ほどの散策でした。この地方の越辺川沿いは稲荷信仰が盛んだったようで小さな稲荷神社が各小集落にあります。

 

千年谷公園

 

 

 

 

ちごの沢沿い